『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』はエンタメ作品の常識に反している

BanG Dream! It's MyGO!!!!!』がエンタメ作品としていかに異質で、それ故に魅力的であったか。

 

アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」メインビジュアル
©BanG Dream! Project

 

 

 

 

序論:”迷子”とは

BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(以下『MyGO!!!!!』)のテーマは何か。そう聞かれれば、多くの人が「迷子」と答えるでしょう。主人公たちの結成するバンドの名前「MyGO!!!!!」の由来は”迷子”ですし、今作の初期キャッチコピーは冒頭の画像の通り「迷子でもいい、迷子でも進め。」*1でした。今作が「迷子」というキーワードを元に設計されているのは明らかです。

では”迷子”とはどういう意味を持つ言葉なのか。デジタル大辞泉によれば次のようになります。

道がわからなくなったり、連れにはぐれたりすること。また、その子供やその人。まよいご。

道が分からない状態、またはその人、というような定義です。とはいえ、これをTVアニメ作品のテーマとして解釈するには、具体的すぎていささか無理があります。もっと抽象的で、比喩表現にも使いやすい言葉に言い換える必要があるでしょう。

ここでは”迷子”を”答えが分からない状態”と言い換えることとします。

すなわち「迷子=答えが分からない状態」です。

例えば親とはぐれた子供は、親の場所という”答え”が分からないから迷子であると言えます。人生において迷子になるとは、人生の目標という”答え”が分からなくなった状態とも言えるでしょう。人生の岐路に立った人が、どちらに進めばいいのかの”答え”を持たないなら、それもまた迷子です。

そしてこの汎用性の高い表現を用いて『MyGO!!!!!』を分析すると、本作の特異さが明らかになるのです。

 

 

本論:”迷子”が生む異質さ

① CRYCHICの解散理由が13話まで明かされない

『MyGO!!!!!』3話では「CRYCHIC」が解散に至るまでの経緯が描かれました。しかし最も大事な解散理由については、終盤まで明かされることなく、13話にて祥子の抱える事情が描かれたことで、漸く間接的に明かされることとなりました。

解散当時の祥子や睦の心情を詳細に描くことなく、真実の多くを2クール目に持ち越した構成については賛否あって然るべきでしょう。とはいえこの記事で触れたい本題はそこではなくて。

ここでは”『MyGO!!!!!』はなぜ解散理由を長らくに渡って明かさなかったのか”という点に絞って、その構成意図を読み解いてみたいと思います。

普通に考えれば、解散理由のような”過去の重要な出来事”については、その詳細を早い段階で明かした方が良いでしょう。その方が視聴者もスッキリするし、無駄なモヤモヤも残らない。「CRYCHIC」が解散したのは過去の出来事なわけですから、キャラクターの成長や変化を印象づける上でも、過去の出来事がキャラクターに与えた影響を明確にしておくのは重要です。隠すにしても限られた期間だけに留めることが多いでしょうし、その場合は明かすタイミングに何かしらの衝撃やカタルシスを持ってこれるように構成するでしょう*2。何にしても、1クール作品の3話から13話まで、過去の重要な出来事の理由が明かされないというのは相当”異質な”エンタメ作品の常識に反する構成と言えます。

 

では何故そうまでして今作は解散理由を頑なに明かさなかったのか。冒頭で述べた「迷子=答えが分からない状態」なるテーマに基づくと、1つの答えが見えてきます。

それは解散理由=答え、だということです。『MyGO!!!!!』における「CRYCHIC」の解散理由は、言うなれば「過去の自分たちの何が間違っていたのか」を教えてくれる答えなのです。解散理由が分からないから燈は自分を攻めるし、そよは無闇に元メンバーと接触し続けるしかなかった。分からないからこそ、彼女たちは迷子で居続けたのです。彼女たちを迷子で居続けさせるためには、解散理由を明かすわけにはいかなかった……だからエンタメ作品としての常識を敢えて破ってまで、解散理由を隠したのでしょう。

1クール目の最後、視聴者には解散理由が祥子の家庭の問題であると(直接明言はされずとも)実質的に明らかにされました。しかしこの理由から、今後も「MyGO!!!!!」のメンバーに解散理由が明かされることはないと思います。

 

 

② 言い争いが決着を見ない

一般的な作品であれば、言い争いのあとには大体”第三者が仲介に入る”や、”殴り合いに発展する”など、ストレスを解消するための展開がやってきます。必ずしもそれで決着がつくとは限らないでしょう。しかし当事者同士のヒートアップが一旦収まって冷静になったり、逆にお互いに溜まっていた鬱憤を直接ぶつけ合ったりすることで、往々にしてその場の熱量は収まります。そしてその過程でストレスは自然と解消され、我々視聴者もカタルシスを得ることができるのです。

一方で『MyGO!!!!!』は、言い争いのあとに”逃げる”が来ます。例えば4話で立希に「それは逃げだよね」と詰められた愛音は逃げますし、5話で愛音と燈に学校凸された立希もまずは逃げます。逃げない場面もありますが、だからといって譲歩や仲裁によって言い争いが解決することや、暴力に訴えることは決してありません。時間経過とともに対立構図は、明確な解決の場面を経ることなく、自然消滅的な形で収まります*3。つまり今作は言い争いによって生じたストレスを、明確な場面をもって解消することなく、むしろ丸ごと引き継いだまま次の展開や場面へと移行していくのです。こうすると視聴者は十分なカタルシスを得ることが出来ません。むしろ継続的にストレスを抱えこむことになります。

 

では何故そうまでしてわざわざ無駄にストレスをかけるような構成を取るのか。「迷子=答えが分からない状態」というテーマに基づくとやはり1つの答えが見えてきます。それは「衝突が解消されれば答えが分かってしまうから」です。

一般的な作品において、言い争いが解決するとは、”お互いの意見をぶつけ合った末に、1つの結論(=答え)に辿り着くこと”です。しかし「MyGO!!!!!」のメンバーは迷子です。衝突を経て1つの答えに辿り着いては、それはもはや迷子ではないのでしょう。だから今作は衝突を安易に解消する道をとらず、むしろ逃げることでストレスを解消させない道を選ぶのです。

「MyGO!!!!!」のメンバーが迷子である以上、第三者が方向性を提示することも、殴り合いの末に1つの終着点に落ち着くこともあり得ません。ただ「MyGO!!!!!」は逃げるのです。たとえそれがエンタメとしての一般的な志向に反するとしても。

 

 

③ 謝りそうな場面で謝らない

一般的な作品であれば、”謝罪”はその重さの振れ幅こそあれ、キャラクター同士の衝突を防ぐための緩衝材として、関係を築く上での潤滑油として、そしてキャラクター同士が仲直りするときのきっかけとして広く使われるものです。勘違いか、すれ違いか、意見の相違か……何にせよ一旦こじれた関係性が仲直りして元に戻る、というのはカタルシスを生むための展開としてごく普通なものですし、その際には必ずと言っていいほど謝罪が関わってくるものでしょう。2人とも謝ってお互い様、なんてのはよくある展開です。

一方『MyGO!!!!!』は、極端に謝罪する機会を限定しています。ギスギスすればするほど謝らない、と言ってもいいでしょう*4。謝るべき場面で謝らなければ、当然ストレスが解消されることはありません。ここでもやはり本来得られるはずの場所でカタルシスを与えないことで、視聴者にさらなるストレスをかけていることになります。

 

ではなぜわざわざこんな構成を取るのか。「迷子=答えが分からない状態」を踏まえて考えると、先程と同じように1つの結論を導き出すことができます。

つまり謝罪とは、”自分の非を認める行為”、すなわち”過去の自分は間違っていた”と答えを出す行為なのです。そのような確定的な行動を、今作は許さないのでしょう。自分に非があると自覚しても、謝ることでそれを確定的な事実にはしたくない……ありのまま自分を受け入れながら迷子のまま生きていきたい……その思いを肯定するためのストーリーテリングだと考えられます。

 

 

④ 叱る・注意する大人がいない

例えば同じ女子高生バンドものの『ぼっち・ざ・ろっく』を思い起こすと分かりやすいと思います。結束バンドに敢えて試練を与えて成長を促したり、あるいはぼっちから金を借りて返さなかったクズベーシスト共に然るべき制裁を下したり。時に厳しさも見せながら結束バンドのメンバーを支え応援する星歌さんは、表題のような大人の代表格と言えるでしょう。

1. しかし今作では、周りにそもそも注意をする大人がいません。バンド内のいざこざならいさ知らず、楽奈がライブ前の音響テスト中に突然ギターをかき鳴らして立ち去っても、ケータリングを勝手に食べてもお咎めなしです。

2. そもそも厳しい方面に拘らなくても、周りに応援してくれる大人や困った時に助けになってくれる大人すら殆ど登場しません。悩む彼女たちに進んで手を差し伸べてくれる存在は、バンドメンバーや同級生などを除いて徹底的に排除されています。

 

ではこの2点について、「迷子=答えが見つからないこと」と照らし合わせて考えてみます。

まず前者について、これは”叱る”という行為が、”答えへと誘導する”行為に他ならないからだと考えられます。大人が注意したり、叱ったりすることは、すなわち子供を大人の価値基準で正しい方向へと誘導しようとする行為です。今作はそれを許さないのでしょう。誘導される答えなど要らない、答えは自分で見つけ出すもの……だからこその迷子なのですから。

そして後者について、これは”大人が応援してくれているから”あるいは”支えてくれる人のために”といった目標がある種の答えとなることを避けているとも考えられます。そうでなくとも、彼女たちはあくまでも迷子ですから、自分自身の意志以外に答えは持ち合わせていません。ただ彼女たちはバンドがやりたいからバンドをするのです。その単純な結論を、可能な限り単純なまま描き切るために、他の要素はバッサリとカットされたのでしょう。

 

 

⑤ ボケとツッコミの概念が存在しない

通常のアニメにおけるキャラクターは、特にエンタメ志向が強いものであれば記号的であることが大半です。「変わった子」は極端に「変わった子」であり、そのおかしさがボケとして機能する。反対に「常識のある」キャラクターはその「変わった子」にツッコミを入れるポジションになる。ご注文はうさぎですか?であれば、ココアにチノがツッコミを入れたり、千夜にシャロがツッコミを入れたりすることが多い*5ですし、『ぼっち・ざ・ろっく』ならぼっちや山田に虹夏がツッコミを入れるのがよくあるパターンでしょう。ボケとツッコミが分かりやすいのできらら系作品を例に出しましたが、それに限らずとも『かげきしょうじょ!!』であれば、さらさと愛はボケとツッコミの関係性と捉えることもできますし、機動戦士ガンダム 水星の魔女』ならスレッタにミオリネがツッコミを入れる関係が普通でしょう*6

何にせよ、雰囲気を丸くするために掛け合いの中でボケとツッコミの役割分担はよく行われることであり、余程のことでもない限りこの関係性がどこにも見られないアニメ作品というのは存在しません。

しかし『MyGO!!!!!』はそれに該当すると言っていいでしょう。変な行動をするキャラクターとしては楽奈がいますが、彼女に対して行われているのは大抵立希による批判くらい。ボケはあっても、それをツッコミで茶化す意図は感じられません。愛音とそよの関係も、ボケとツッコミというには当たりが強すぎます。少なくとも笑いを意図して作られているものではないでしょう。他のキャラクターもボケとツッコミというよりは、遠慮なく本音をぶつけ合っているだけに見えます。

 

これもテーマに照らし合わせて考えてみると、「ボケ」あるいは「ツッコミ」という枠にキャラクターを閉じ込めないための作戦だと考えられます。常識人。変わり者。そのようなレッテルはある意味では、外部の人間が定めた1つの”答え”であり、本人の人間性とは別に存在するものです。『MyGO!!!!!』はそのようなレッテルを排し、どのようなキャラクターでも等しく1人の人間として描こうとします。それ故にたとえどのような性格のキャラクターであっても、それをギャグとして腐すことなく、逆に常識人として持ち上げることもなく、等身大の1人の人間としてリアリティを持って描こうとするのです。そしてそれ故に、『MyGO!!!!!』はエンタメ作品特有の記号性から外れ、記号性の枠組みの外にある生々しいリアリティを描き切ることができたのでしょう。

 

 

おまけ:10話は何故高い評価を得たか

最後に本題から外れた話を少し。今作で最も評価された話数と言えば、10話で異論はないでしょう。燈の強い思いによって成されたバンドの再結成は、理屈を超えて多くの人々に感動を呼びました。

しかし上記のように、今作はテーマからしカタルシスからかけ離れた作りをしています。何故10話であのようなカタルシスが生じたのか、不思議に思う方もいるでしょう。

ここまで今作が徹底的に答えを避けているように書いてきましたが、実は今作には答えが用意されていないわけではありません。当たり前のことではありますが、全キャラクターに共通する”答え”として”バンドをやりたい”という気持ちが用意されています。何をすれば良いのか、どこに向かえば良いのか、何も分からない迷子の彼女たちがたった1つ分かること、それはバンドをやりたい、というただ1つの意志なのです*7

となれば、10話がカタルシスを生じうる理由も簡単に分かります。すなわち、10話のライブ時だけは5人全員の向く方向が一致しているのです。てんでバラバラだった「MyGO!!!!!」のメンバー全員が、10話のあの瞬間に初めてバンドをやりたいという思いを共有し、バンドをやりたいという1つの答えに辿り着いているからこそ、10話には強烈なカタルシスが存在し得るのです。

 

そういう意味では、10話は今作においてかなり例外的な回とも言えるでしょう。キャラクターに答えを与えることを徹底的に避けた今作において唯一、「MyGO!!!!!」のメンバー全員が同一の答えに辿り着き、それ故に今作の作りからして無縁だったカタルシスが生じているのですから。

逆に言えば、今作はキャラクターが”バンドをやりたい”以外の終着点に辿り着くことを徹底的に拒否しています。全ての感情が最終的にバンドをやるためのモチベーションになるように設計されているとすら言えます。だから立希は燈の音楽性には惚れても、燈本人に百合的な感情を向けることはないし、極端に世話も焼かない。誰かと誰かの間で依存関係も生じない。キャラクター間の感情の重さがバンドをやりたい気持ちの強さを上回ることがないように、バンド以外の部分のドラマがバンド活動で生まれるドラマを上回ることのないように今作は設計されています。

それ故に『MyGO!!!!!』は百合作品ではなく、バンド作品である、というのが私見ですが……読者の皆様はどう思われたでしょうか。

 

 

結論:つまり『MyGO!!!!!』はエンタメ作品の常識に反している

さて、これまで今作の特色について、「迷子=答えが分からない状態」というテーマに基づいて見てきました。そしてその特異性についても大いに分かっていただけたかと思います。つまるところ『MyGO!!!!!』は、普通のエンタメ作品が避けてきた道を、敢えて真正面から突き進む作品なのです。

謝ってほしいところで謝らない。ぶつかって欲しいところで片方が逃げる。まともなカタルシスは10話までやってこない。従来のエンタメ作品の常識を覆す構成は、間違いなく人を選ぶものであり、少なからず今作を受け付けない人もいるかと思います。(かく言う筆者も『MyGO!!!!!』を受け付けない側の人間です)

しかしその尖った方向性が故に、『MyGO!!!!!』は従来のエンタメ作品にはない魅力を生み出すことができたのでしょう。

特にキャラクターに関しては顕著です。なにせ普通のエンタメなら性格が矯正されていそうなキャラクターばかりですから。立希はずっとキレてるし、愛音は自分のやりたいことに対して一切遠慮しないし、楽奈はいつまでもペットじみた行動しか取らない。彼女たちの性格は、人間社会において生きやすいものとは決して言えないばかりか、むしろ周りとの衝突や不和を繰り返して、人間関係を崩壊させてもおかしくないような危うい代物ばかりです。

当然、社会に出てこの性格がそのまま通用することはないでしょうし、いずれは何かしらの形で丸くなる必要があるでしょう。しかし『MyGO!!!!!』はその性格を寛容性をもって受け入れています。

本論で見てきた内容を改めて整理すると、次のようになります。

  • 答えを教えず、自分自身の意志で選択させる(①、②)
  • 自分の性格を否定させない(③)
  • 常識や一般論を押し付けない(④)
  • 型にはめない(④、⑤)

社会常識や一般論に対するアンチテーゼと、個性の尊重、そして自分自身で選び取る道への後押し。人格形成の途中である思春期特有の性格の不安定さと不条理さを、今作は見事に肯定しています。”無理に矯正しようとせずとも、いずれ自分で気づいて直せればそれで良い”。叱ることも謝罪することも要求せず、逆に外部から答えを教えたり常識を押し付けたりすることもなく、ただ本人の気づきを待つ今作の作風からは、そんなメッセージ性すら感じられます。

エンタメ作品の型を破った今作は、必然的にキャラ造形の型も壊すことになりました。それ故に、このような赤裸々で寛容的な脚本が実現できたのでしょう。社会的にいずれは直されるべきだろうと思われる性格も、ないし外面で包み隠さないといけなくなるであろう性格も、エンタメの理外だからこそ、ありのまま、否定することなく描き出せたと言えます。

従来の常識に逆らい、エンタメ作品の一般論をぶち破り、その先でしか描けない人間のリアリティとエンターテインメントを描いた作品、それが『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』なのです。

 

 

あとがき

上記の通り、筆者は今作が好きな側の人間ではありません。むしろ第一印象としては全く受け付けない作品でした。しかし世間では何故か受けている、今期有数のニッチな盛り上がりを見せている、称賛されている、それは何故なのか。その疑問からスタートして、どこに特殊性があり、どこに自分が受け付けない原因があるのか、それを探った結果がこの記事になります。

この記事中で触れた要素は、必ずしも真実とは限りません。本文の通りに”迷子”というテーマに沿った結果そうなったのかもしれないし、ぜんぜん違う要素を意識した結果たまたまそうなったのかもしれない。重たい雰囲気を作ろうとした結果、こうした作りになったという至極単純な帰結である可能性も十分あるでしょう。意図するところは制作陣のみぞ知るところですが、ただ今作のやり方がTVアニメにおいては一般的でなく、それ故に一部の視聴者に受けたというのは紛れもない事実だと思います。

 

本文中で例えにも出しましたが、今作は『ぼっち・ざ・ろっく』の真逆を行く作品なのだと思います。

ぼざろのキャラは記号的で、MyGOのキャラはリアル寄り。

ぼざろはギャグ多めで、MyGOはボケツッコミの概念すらない。

ぼざろは謝るし謝らせる人もいるけど、MyGOは謝らないし謝らせる人もいない。

ぼざろはぼっちに対して優しいけれど、MyGOは燈に対して厳しい。

同じ女子高生のバンドものという題材を扱いながら、ここまで描写の姿勢が真逆だと面白いですよね。しかも2つともがそれ相応に受けたのだからまた凄い。正統派にエンタメを貫いている『ぼっち・ざ・ろっく』が受けるのは分かりますが、むしろエンタメに反する作りをしている『MyGO!!!!!』ですら、ニッチながらも確かな評判の良さがあったというのは驚くべき事実だと思います。

 

そしてこれはまた、エンタメというものが一面的に捉えられないものであることの証左でもあります。筆者はぼざろが大好きで、ぼざろのような作品こそがエンタメだと信じる人ですから、『MyGO!!!!!』の全てがエンタメに反するように捉えられました。一方でそうでないと感じる人もたくさん居るのだと、『MyGO!!!!!』のような作品がエンタメだと感じる人もいるのだとこの作品を通じて実感できたのです。

つまるところ、自分には全く合わない作品こそが、自分自身の価値観について疑念を持つきっかけとなり、作品を多面的に見るきっかけとなったのです。

筆者の評価基準で言えば『MyGO!!!!!』というアニメ作品はせいぜい中の中くらいの評価に落ち着くでしょう。しかし思考の対象としては大変興味深い作品であったと、価値基準やエンタメの有り様について考えさせてくれた貴重な作品であったと、掛け値なしの称賛でこの記事を締めようと思います。

 

 

*1:https://www.lisani.jp/0000230058/

*2:今作の場合は2期への引きに使ったとも言えるが、1クール作品として見るなら機能はしていない

*3:10話を除く

*4:1話で愛音が燈に謝ったり、12話でそよがバンドの準備がギリギリになったことを謝ったり、謝る場面がないわけではない

*5:無論必ずしもそのパターンだけではない

*6:作品のチョイスは恣意的

*7:その意図や重さはキャラクターによって様々だが